「古い小銭を持っているけれど、これって価値があるのかな?」そんな風に思ったことはありませんか?実は、古銭の中には驚くほど高値で取引されているものもあるのです。そんな古銭の代表格ともいえるのが、江戸時代を代表する銭貨「寛永通宝」です。
寛永通宝は、江戸幕府が発行した銭貨で、江戸時代を通して広く流通していました。しかし、寛永通宝の中には、希少価値の高いものや鋳造の特徴によって、非常に高い価値を持つものがあるのをご存知でしょうか。
本記事では、寛永通宝の基礎知識から、古寛永と新寛永の違い、さらには種類ごとの特徴と価値まで、寛永通宝の魅力に迫ります。あなたのタンスに眠っている古銭が、思わぬ価値を持っているかもしれません。ぜひ、本記事を通して、寛永通宝の魅力を再発見してください。
寛永通宝とは
寛永通宝は、江戸時代に日本で広く流通した銅銭です。その名の通り、寛永年間(1624年~1644年)に初めて鋳造されたことから「寛永通宝」と呼ばれるようになりました。
寛永通宝の特徴は、銭文(表面の文字)に「寛永通宝」と記されていること。そして、銭の中央には正方形の穴が開けられています。この穴は、銭を簡単に運ぶために紐を通すためのもので、当時の人々の知恵が反映されています。
寛永通宝は、江戸幕府が発行した公定通貨で、金や銀の貨幣よりも小額の取引に使用されました。庶民の日常の買い物では、寛永通宝が重宝されたのです。発行当初は、銀との交換比率も定められていました。
寛永通宝は、江戸時代を通して、様々な種類が鋳造されました。鋳造された年代や場所、そして鋳造技術の違いによって、様々なバリエーションが生まれたのです。寛永通宝の中には、希少価値の高いものや、美しい鋳造技術が用いられたものなど、現在でも高い価値を持つものが存在します。
江戸時代の経済を支え、庶民の生活に欠かせない存在であった寛永通宝。その魅力と人気は、古銭収集家だけでなく、日本の歴史や文化に興味を持つ人々からも支持されています。寛永通宝は、江戸時代の経済や文化を知る上でも、重要な存在なのです。
寛永通宝の古寛永と新寛永の違いとは
寛永通宝は、大きく分けて「古寛永」と「新寛永」の2つに分類されます。両者の主な違いは、鋳造された時期と品質にあります。
古寛永は、寛永13年(1636年)から万治2年(1659年)までに鋳造された寛永通宝を指します。この時期の寛永通宝は、幕府が全国統一の貨幣として発行した最初の銅銭で、各地の大名に鋳造を許可したため、様々な種類が存在します。
古寛永の特徴は、銭文(表面の文字)の書体が多様で、品質にばらつきがあることです。当時の技術的な限界から、銭の厚みや大きさ、重さなどが一定ではなく、文字の形もゆがんでいたり、かすれていたりすることが多いのです。
一方、新寛永は、寛文8年(1668年)以降に鋳造された寛永通宝を指します。幕府は、古寛永の品質の悪さを改善するため、江戸の亀戸に新しい鋳造所を設置し、直接管理下で寛永通宝の鋳造を再開しました。新寛永の特徴は、品質が格段に向上したことです。
銭の厚みや大きさ、重さが均一になり、銭文の書体も整えられました。特に、寛文8年に鋳造された「島屋」と呼ばれる寛永通宝は、その美しさから「寛永通宝の最高傑作」とも称されています。
このように、古寛永と新寛永の違いは、鋳造された時代背景と品質の差にあります。
寛永通宝「古寛永」の種類と価値
まずは、寛永通宝の「古寛永」を紹介します。日本各地の鋳銭地による寛永通宝で、以下はその中でも代表的なものです。
二水永(にすいえい)
二水永は寛永通宝の初期に鋳造された特殊な一文銭です。寛永3年(1626年)に常陸水戸の豪商「佐藤新助」が幕府と水戸藩の許可を得て私的に鋳造したのが始まりとされています。
二水永の特徴は「永」の字の特殊な字形にあります。「二」と「水」を組み合わせたような独特の書体で、一般的な寛永通宝とは一目で区別が可能に。また、銭の裏面には「三」の文字が刻まれており、これは寛永3年の鋳造を示しているとみられています。
佐藤新助の没後、鋳造は一時中断しますが、寛永12年(1635年)に息子の佐藤庄兵衛が再開。この時の二水永は裏面に「十三」と刻印されたといわれ、寛永13年の鋳造と考えられています。
二水永は、初期寛永通宝の中でも珍しい部類に入る銭貨です。当時、寛永通宝の鋳造は主に幕府の直接管理下にある鋳造所で行われましたが、二水永は幕府と藩の許可を得た私人による鋳造という特殊性があります。そのため、現存数が少なく、希少価値が高いといえるでしょう。
古銭収集の世界では、その希少性ゆえに二水永は人気が高く、一般的な初期寛永通宝と比べても高値で取引されることが多いようです。美品の場合、数万円の値がつくことも。二水永は、寛永通宝の中でも特に価値の高い一文銭といえます。
芝銭(しばせん)
芝銭は、寛永13年(1636年)に江戸の芝網縄手で鋳造された寛永通宝の一種です。当時、幕府は江戸と近江坂本に銭座を設置し、公的な寛永通宝の鋳造を開始しましたが、芝銭はその初期に製造されました。
芝銭の特徴は、「通」の字の上部が草書体になっている「草点」と呼ばれる書体が多いことです。また、「永」の字も特徴的な形をしています。これらの特徴から、他の初期寛永通宝と見分けられます。
芝銭は、寛永通宝の初期鋳造の一例として重要な位置づけにあります。江戸で鋳造されたという点でも、寛永通宝の歴史を知る上で欠かせない存在です。
価値については、芝銭は初期寛永通宝の中では比較的流通量が多かったとみられ、現存数もある程度確認されています。そのため、同時期に鋳造された二水永などと比べると希少価値は劣り、古銭市場では数百円程度での取引が多く見られます。
浅草銭(あさくさせん)
浅草銭は、寛永13年(1636年)に江戸の浅草橋場で鋳造された初期寛永通宝の一種です。この年、幕府は江戸と近江坂本に銭座を設置し、寛永通宝の公的鋳造を開始しましたが、浅草銭はその初期に製造された銭貨の一つ。
浅草銭の特徴は、他の初期寛永通宝と比べて比較的均質な出来であることが挙げられます。これは、浅草の鋳造所が幕府の直轄管理下にあり、品質管理が徹底されていたことを示唆しています。ただし、浅草銭の中にも細かな書体の違いなど、複数のバリエーションが存在します。
価値的には、浅草銭は初期寛永通宝の中では比較的流通量が多かったとみられ、現存数も多い部類に入ります。そのため、希少価値は他の初期寛永通宝と比べるとやや劣る可能性があります。
市場価格は状態によって数百円から一千円程度で推移しています。
坂本銭
坂本銭は、寛永13年(1636年)に近江国坂本で鋳造された初期寛永通宝です。この年、幕府は江戸と近江坂本に銭座を設置し、寛永通宝の公的鋳造を開始しましたが、坂本銭はその初期に製造された銭貨の一つとなっています。
坂本銭の特徴は、「永」の字が右上方に跳ね上がっているように見える独特の字形にあります。この「跳永」と呼ばれる書体が、坂本銭を他の初期寛永通宝から見分ける大きな手がかりです。
坂本銭は、江戸から離れた地方での初期寛永通宝鋳造の例として重要な位置づけにあります。
価値的には、坂本銭は初期寛永通宝の中でも比較的希少性が高いとされています。江戸や京都に比べると、近江坂本での鋳造量は限られていたと考えられるからです。
市場価格は状態によって数百円から一千円程度の価格帯が多く見られます。
水戸銭(みとせん)
水戸銭は、寛永14年(1637年)に常陸国水戸で鋳造された初期寛永通宝です。
水戸銭の特徴は、「永」の字で左側の縦画が太く、力強い印象を与えることにあります。この独特の「力永」と呼ばれる書体が、水戸銭を他の寛永通宝から見分ける際の重要なポイントになっています。
また、水戸銭には二水永という特殊な寛永通宝との関連性も指摘されています。二水永は寛永3年に水戸の豪商が鋳造した私鋳銭ですが、その後の水戸銭の鋳造は、二水永の流通を受けて幕府が水戸に銭座を設置したことによるものだと考えられています。
価値的には、水戸銭は初期寛永通宝の中では比較的流通量が多かったとみられ、現存数もある程度確認されているため市場価格は数百円のものが多い傾向です。ただし、書体の種類や美品である場合は数万円の高値で取引されることもあり、古銭市場では人気の高い銭貨の一つといえます。
仙台銭
仙台銭は、寛永14年(1637年)に陸奥国仙台で鋳造された初期寛永通宝です。
仙台銭の特徴は、「寛永通宝」の文字が比較的小さく、バランスよく配置されていることにあります。この「中字銭」と呼ばれるスタイルが、仙台銭を他の寛永通宝から見分ける際の手がかりとなります。
また、仙台銭は、仙台藩が幕府から鋳造を許可された数少ない藩札の一つでもあります。仙台藩の経済力の強さを示す一面を持つ銭貨として、地方史的にも重要な意味を持っています。
価値的には、仙台銭は初期寛永通宝の中ではそこまで高くありません。しかし、仙台での鋳造量は、江戸や京都などの大都市に比べると限られていたと考えられています。古銭市場では数百円の価格帯で取引されることが多いようです。
吉田銭
吉田銭は、寛永14年(1637年)に三河国吉田で鋳造された初期寛永通宝です。
吉田銭の特徴は、「永」の字の横画が長く伸びているように見える独特の字形にあります。この「広永」と呼ばれる書体が、吉田銭を他の初期寛永通宝から見分ける大きな手がかりとなっています。
また、吉田銭は、三河吉田藩が幕府から鋳造を許可された藩札の一つでもあります。吉田藩は、徳川家康の次男結城秀康が治めた藩で、徳川家との関係が深い藩として知られています。吉田銭は、そうした藩の特性を反映した銭貨であるともいえるでしょう。
古銭の価値的には、吉田銭は数百円での価格帯が多く見られます。
松本銭(まつもとせん)
松本銭は、寛永14年(1637年)に信濃国松本で鋳造された初期寛永通宝です。
松本銭の最大の特徴は、「寳(宝)」の字の左半分が大きく右上方に傾いているように見える独特の字形にあります。この「斜宝」と呼ばれる書体が、松本銭を他の初期寛永通宝から一目で見分ける大きな特徴となっています。
また、松本銭の鋳造を請け負った今井家には、「斜宝縮宝」と呼ばれる書体の松本銭の見本となる未使用銭貨(枝銭)が残されており、これにより松本銭の存在が確定しました。現在、この枝銭は松本市立博物館に寄贈され、展示されています。
市場価値的には、松本銭は状態によって数百円から数千円での価格帯となっています。
高田銭
高田銭は、寛永14年(1637年)に越後国高田で鋳造された初期寛永通宝の一種です。
高田銭の特徴は、「永」の字の下部が大きく左右に広がっているように見える独特の字形にあります。この「笹手永」と呼ばれる書体が、高田銭を他の初期寛永通宝から見分ける大きな手がかりとなっています。
また、高田銭は、高田藩が幕府から鋳造を許可された藩札の一つでもあります。高田藩は、徳川家康の六男である松平忠輝が治めた藩で、のちに松平光長が藩主となり、幕末まで続きました。高田銭は、そうした藩の歴史を反映した銭貨なのです。
高田銭の市場価値は、数百円程度の価格帯が多く見られます。
岡山銭
岡山銭は、寛永14年(1637年)に備前国岡山で鋳造された初期寛永通宝です。
寛永14年に鋳造された岡山銭の特徴は、「通」の字の上部と下部が離れているように見える独特の字形にあります。この「離頭通」と呼ばれる書体が、寛永14年の岡山銭を他の初期寛永通宝から見分ける大きな手がかりとなっています。
岡山銭は、岡山藩が幕府から鋳造を許可された藩札の一つでもあります。岡山藩は、池田輝政が治めた藩で、徳川家との関係も深い藩の一つでした。岡山銭は、そうした藩の特性を反映した銭貨であるともいえるでしょう。
価値的には、岡山銭は初期寛永通宝の中では比較的希少性が高いとされています。岡山での鋳造量は限られていたと考えられ、現存数も多くはないようです。
岡山銭では数百円の価格帯が多く見られますが、書体によっては大きな価値を持つケースもあります。
長門銭(ながとせん)
長門銭は、寛永14年(1637年)に長門国で鋳造された初期寛永通宝の一種です。
長門銭の特徴は、「永」の字が上下に潰れたような形をしており、まるで下を向いているように見えることにあります。この「俯永」と呼ばれる独特の書体が、長門銭を他の初期寛永通宝から見分ける大きな手がかりとなっています。この書体は岡山銭でも確認されているものです。
また、長門藩は毛利氏の本拠地であり、藩主の毛利輝元は江戸幕府との関係も深い藩でした。長門銭は、そうした藩の特性を反映した銭貨であるともいえるでしょう。
価値的には、長門銭は数百円から数千円のものが多く見られ、美品であったり希少な種類であればさらに高額で取引される場合もあります。
建仁寺銭(けんにんじせん)
建仁寺銭は、承応2年(1653年)に京都の建仁寺で鋳造されたとされる寛永通宝です。建仁寺は、京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の大本山として知られています。
建仁寺銭の特徴は、「寛永通宝」の文字が大きく、特に「通」の字が他の文字よりも一回り大きいことにあります。この「大字」と呼ばれる書体が、建仁寺銭を他の寛永通宝から見分ける手がかりとなっています。
ただし、建仁寺銭は、実際の鋳造地が建仁寺であったのか、長崎であったのかについては諸説があり確定していません。当時の建仁寺の鋳銭技術や設備を考慮すると、長崎説も有力視されているようです。
価値的には、建仁寺銭は数百円の価格帯で推移しています。美品は古銭市場で人気が高く、数千円以上の価格がつくこともあります。
沓谷銭(くつのやせん)
沓谷銭は、明暦2年(1656年)に駿河国沓谷で鋳造された寛永通宝です。沓谷は、現在の静岡県焼津市に位置する地域で、江戸時代には幕府直轄領でした。
沓谷銭の特徴は、「宝」の字の下部が他の文字よりも長く伸びているように見えることにあります。この「正足宝」と呼ばれる書体が、沓谷銭を他の寛永通宝から見分ける手がかりとなっています。
沓谷銭の鋳造量については、『尾州茶屋家記録』に20万貫文(2億枚)との記録が残されています。これは、当時の寛永通宝の鋳造量としては比較的大規模なものであったと考えられます。
沓谷銭の価値は鋳造量も多かったとされており、希少価値がそれほど高いとはいえません。市場では数百円での価値となっています。
鳥越銭
鳥越銭は、明暦2年(1656年)に江戸の鳥越で鋳造された寛永通宝です。鳥越は、現在の東京都台東区に位置する地域で、江戸時代には幕府直轄領でした。
鳥越銭の特徴は、「寛永通宝」の文字が全体的に小さく、バランスよく配置されていることにあります。この小型の寛永通宝は、他の寛永通宝と比べてもコンパクトな印象を与えます。
鳥越銭は古銭市場で、数百円の価格帯が多くなっています。
寛永通宝「新寛永」の種類と価値
新寛永通宝は、江戸の亀戸村にて幕府の直轄による鋳造が始まりでした。寛永通宝はここから明治初期となる1869年までの約200年間、庶民の銭貨として親しまれていきます。
以下、代表的な「新寛永」を紹介します。
島屋文(しまやぶん)
島屋文銭は、江戸時代の新寛永通宝の始まりとされるもので、寛文8年(1668年)ごろに江戸の亀戸で鋳造されたと考えられています。
島屋文銭の最大の特徴は、銭文(表面の文字)が「島屋」の書体で書かれていることにあります。「島屋」とは、当時の書体の一種で、丸みを帯びた独特の字形が特徴的です。中でも、有名なのは「通」の頭部分が「ユ」のような形になっている点でしょう。
島屋文銭は、新寛永通宝の中でも珍しい種類の一つで、その特異な様式から他の新寛永通宝との見分けは容易です。ただし、島屋文の鋳造の経緯や目的については、まだ不明な点が多く残されています。
価値的には、島屋無背文銭は新寛永通宝の中でも希少性が高く、古銭市場では人気の高い銭貨の一つです。
また、背面に「文」の記載がある「島屋文」と、記載がない「島屋文無背」があります。
古銭市場では一般的に、「島屋文」といえば文の記載があるほうを指し、島屋文無背よりも価値が高くなっています。島屋文は数十万円、島屋文無背は数万円での価格帯が多く見られます。
正字文・正字背文
正字文銭は、江戸時代の新寛永通宝の一種で、寛文8年(1668年)から鋳造が開始された新寛永通宝の代表的な様式です。
正字文の特徴は銭文(表面の文字)が「寛永通宝」の標準的な書体で書かれていることにあります。この標準的な書体が「正字」と呼ばれ、新寛永通宝の中で最も一般的に見られる書体です。
正字文銭の銭背(裏面)には、波紋や「文」の字が見られるのが一般的です。「正字背文」もこれに含まれます。
正字文銭は、江戸の亀戸を中心に大量に鋳造されました。その品質の高さと大量の鋳造量から、新寛永通宝の中で最も広く流通した種類の一つといえるでしょう。
正字文は流通量も多く、価値は数百円程度のものが多く見られます。また、複数の書体が確認されているため、専門家に見極めてもらうのが最善です。
正字入文(せいじいりぶん)
正字入文銭は江戸時代の新寛永通宝の一種で、正字文銭や正字背文銭と同様に、寛文8年(1668年)から鋳造が開始された新寛永通宝の代表的な様式の一つです。
正字入文銭の特徴は、銭文(表面の文字)が「寛永通宝」の標準的な書体である「正字」で書かれていることと、その「文」の字が「入」の見た目に近い書体となっていることです。
古銭市場での価値は、数百円から数千円の価格帯が最も多くなっています。
退点文(たいてんぶん)
退点文銭は、新寛永通宝の一種で、寛文8年(1668年)に鋳造されたと考えられている銭貨です。
退点文銭は全体的に文字が太めです。最大の特徴としては、「文」の字の点が通常の位置から右寄りに配置されていることにあります。この特徴的な字形は「退点」と呼ばれ、他の寛永通宝にはあまり見られない珍しい様式です。
市場価値は数百円から数千円の値が付くことも多く、母銭であればさらに高い価値を持ちます。
耳白銭(みみじろせん)
耳白銭は、江戸時代の新寛永通宝の一種で、正徳4年(1714年)に江戸の亀戸で鋳造されたとされる銭貨です。
耳白銭の最大の特徴は、銭文周囲の縁(輪の部分)が広く(=耳が広い)なっていることです。また、白っぽい縁取り(=耳が白い)をしているものも多いことからその名が付いたという説もあります。
この時期、正徳金銀の発行で品位の高い良質な素材を使うようになっていたことから、同時に銭銭の品位も改善が求められていました。
白銅に近い色合いをしたものが増えたのも、このためだと考えられています。耳白銭は、こうした状況下で、品位の高い良質な銅を使用して鋳造された新寛永通宝といえるでしょう。
耳白銭の価値としては、数百円の価格帯が多く見られます。
日光御用銭(にっこうごようせん)
日光御用銭は、江戸時代の正徳4年(1714年)に鋳造された新寛永通宝です。日光御用銭の特徴は、銭文で「寳(宝)」文字内の「尓」にハネのないことが大きなポイントです。
日光御用銭については徳川家の日光参拝時の銭であるとの説がほとんどですが明確になっていない部分も多く、この後で取り上げる「正徳期佐渡銭」と書体が非常に似ていることから、それの一種ではないかとの説もあります。
サイズも直径26.4mmから26.6mm程度と、大ぶりなことからも母銭に近い作りです。
日光御用銭の市場価値は非常に高く、数万円から数十万円で取引されています。もしお手元に似た特徴をお持ちの場合は専門家に見てもらうことをおすすめします。
正徳期 背佐
正徳期背佐銭は新寛永通宝の一種で、正徳4年(1714年)ごろに佐渡で鋳造したとされる銭貨です。
正徳期背佐銭の最大の特徴は、銭背(裏面)に「佐」の文字が見られることにあります。この「佐」の文字は、鋳造地である佐渡を示すものと考えられており、他の新寛永通宝にはない特徴的な様式です。
市場価値は数百円から数千円の価格帯が多く、母銭だとその価値は数十万円になることも。
享保期 背広佐(せびろさ)
享保期背広佐銭は、江戸時代の新寛永通宝の一種で、享保2年(1717年)に佐渡で鋳造された銭貨です。
享保期背広佐銭の最大の特徴は、銭背に「佐」の文字が大きく、はっきりと見られることにあります。この「佐」の文字は、正徳期背佐銭と同様に、鋳造地である佐渡を示すものと考えられています。
ただし、正徳期背佐銭と比べると、「佐」の文字がより大きく、明瞭に打ち出されているのが特徴です。
価値的には、享保期背広佐銭は数百円から一千円程度、母銭であれば数十万円となることも珍しくありません。享保期の背佐は書体がいくつも存在するため、専門家による査定が欠かせない逸品です。
蛇ノ目
蛇ノ目銭は、新寛永通宝の一種で、元文元年(1736年)以降に京都の伏見で鋳造されたとされる銭貨です。
蛇ノ目銭の最大の特徴は、蛇ノ目傘でよく見かける「蛇の目」のような独特の模様で囲まれていることにあります。縁の幅が他と比べても明らかに広く、他の新寛永通宝にはない非常に特徴的な様式です。
新寛永通宝の中でも蛇ノ目銭は古銭コレクターからの人気が高く、市場価値は数千円から4万円。母銭だと数十万円での価格帯が多く見られます。
石ノ巻銭(いしのまきせん)
1728年(享保13年)に陸奥国石巻で鋳造された石巻銭には、「重揮通背仙」と「重揮通無背」の2種類が有名です。
「重揮通背仙」は、銭文の「通」部分の「辶」でグニャッと折れが一つ多い書体となっているのが特徴です。また、銭背には「仙」の文字が明瞭に打ち出されています。この「仙」は、仙台藩を示すものと考えられています。
また、「通」部分は「コ」になっている「コ頭」が多いものの、「マ」になっている「マ頭」もあり、それぞれ価値が異なります。
一方、「重揮通無背」の銭文は「重揮通背仙」と似た書体ですが、銭背には「仙」の文字がありません。つまり、裏面に文字がない「無背」の様式です。
「重揮通背仙」と「重揮通無背」では、「重揮通背仙」のほうが市場価値も高くなっています。古銭市場では「重揮通背仙」は数千円から数万円、「重揮通無背」は数百円の価格帯が多く見られます。
小梅銭(こうめせん)
小梅銭は、江戸時代後期の寛永通宝で、元文2年(1737年)に江戸の小梅村(現在の東京都墨田区)で鋳造されたとされる銭貨です。
小梅銭の最大の特徴は、銭背に「小」の文字が明瞭に打ち出されていることにあります。この「小」は、鋳造地である小梅村を示すものと考えられています。
小梅村は、江戸時代、幕府直轄の鋳銭所が置かれた場所として知られていました。現在、このエリアには本所税務署があります。
小梅銭にも複数の種類があり、銭背の「小」に特徴がある「広穿背小」や「狭穿背小」が有名です。「広穿背小」のほうが評価も高く、市場価値は数百円から数千円となっています。
白目小字
白目小字銭は、江戸時代の寛永通宝で、元文4年(1739年)に鋳造されたと考えられている銭貨です。
白目小字銭の最大の特徴は、素材の影響により白い色が強めとなっていることにあります。書体により「白目中字」もあり、白目小字のほうが価値も高くなっています。
白目小字銭の書体は白目中字よりも小さく、「寛」の「見」部分の前足が少し上に跳ねている傾向にあります。
市場価値としては、白目中字が数千円から一万円、白目小字が数千円から数万円の価格帯が多く見られます。ともに母銭であれば、数十万円規模の価値にも期待できるでしょう。
一ノ瀬銭(低寛背一) 低寛背無
一ノ瀬銭は、江戸時代後期の寛永通宝の一種で、元文5年(1740年)以降に鋳造されたと考えられている銭貨です。一ノ瀬銭には、「低寛背一」と「低寛背無」の2種類が広く知られています。
「低寛背一」と「低寛背無」の特徴としては、銭文で「寛」の字の形状が通常の寛永通宝よりも低く、やや足の部分が広がって座り込んだ形状になっているのが特徴です。
一方、「高寛」と呼ばれる「寛」が高く足の広がっているものもあります。
銭背には最大の特徴である「一」の文字があります。「一」の文字があるものを「背一」、無いものを「背無」に分類されています。
「一」の文字が入る一ノ瀬銭は全体的に他の寛永通宝よりも価値は高めで、「低寛背一」だと数千円から数万円、母銭でも数十万円の価格帯で推移しています。
長尾寛(21波)
長尾寛(21波)は、明和5年(1768年)に鋳造された寛永通宝です。
長尾寛(21波)の特徴は、銭背に21の波紋が入っていることにあります。長尾は銭文の「寛」で最後のハネが上に長く伸びている書体を指し、このハネが短い「短尾寛(21波)」も存在します。
市場価値は高く、長尾寛(21波)は数万円から十万円、母銭であればそれ以上の価格帯に期待できるでしょう。
おわりに
寛永通宝は、江戸時代を通して日本経済を支えた銅銭であり、現代においても歴史的価値や希少性から、古銭収集家の間で高い人気を誇っています。
寛永通宝の価値は、種類や状態によって大きく異なりますが、古寛永の中でも特に希少性の高い「二水永」などは、市場でも高値で取引されることもあります。新寛永の中では、品質の高さから「島屋」や「日光御用銭」などが人気を集めており、美品であれば高額な値がつくことも。
寛永通宝を売却する際は、その価値を適切に評価してもらえる信頼できる買取店を選ぶことが大切です。
自宅に眠っている古銭が予想外の高値で売れることもありますが、一方で、価値を見誤って安値で売ってしまうリスクもあります。したがって、寛永通宝の売却を検討する際は、信頼できる買取店にて査定を受けることをおすすめします。
私たち「日晃堂」は、古銭買取の専門店として長年の実績と豊富な知識を持つスタッフが在籍しています。寛永通宝をはじめとする古銭の価値を適切に見極め、お客様に満足いただける高価買取に努めます。
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