今回は神奈川県在住の60歳男性から富岡鉄斎の掛軸を買取させていただいたのでご紹介します。ダメージはありましたが、貴重な鉄斎の作品というとこで、高価買取させてきただきました。
☆富岡鉄斎とは
富岡鉄斎(1837年1月25日-1924年12月31日)は、日本の画家であり儒教学者です。彼は1837年に京都三条衣棚の法衣商十一屋伝兵衛富岡維叙の次男としてこの世に生を受けました。幼いころから体は華奢で、斜視であり、なおかつ聴力にも若干の不自由があったといわれています。しかし、彼の性格は風貌とは全くことなり、短気で怒りっぽい性格だったようです。幼少期から大変勉学に励み、その博学ぶりは画家としての評価を受けてからもなお健在でした。幼少期に神学を学んだ鉄斎は早くも家を出て西八条の六孫王神社に弟子入りをします。この頃から儒学に合わせて絵画も学ぶようになりました。
絵画を学んだのは大角南耕と窪田雪鷹という二人の画家からです。この二人に関する詳しい文献は残されていませんが、当時相当に高い評価を受けていた画家であったことは間違いないといわれています。鉄斎は大和絵、琳派、浮世絵など、さまざまな絵画の技術を習得し、その豊富な知識量から生み出される絵画ひとつひとつには深い意味があるとされています。実際に晩年の鉄斎は「自分は意味のない絵は描かない」という言葉を残しています。このことからも、鉄斎は自分自身を画家とは思っておらず、あくまでも儒教学者としての立ち位置を変えたくないという確固たる意志が伝わってきます。これが最後の文人と呼ばれる大きな理由のひとつでもあります。
鉄斎の作品は現在も世界中で評価されており、日本人画家の中でも世界で名の知れた有数の人物といえます。このように、未だに高い評価を受け続けるのには彼の独特の画法が関係しています。
☆富岡鉄斎の掛軸
鉄斎の画法で一般的に評価されているのは近代性でしょう。明治から大正を生きた鉄斎の画法は現代の西洋絵画などに共通する点が極めて多いといわれています。躍動的な筆使いや大胆な構図、それでいてかつ繊細な造形は当時としては珍しい描き方でした。
鉄斎は画家として若い頃から高い評価を受けており、その評価は年を重ねるごとに増していきました。1919年には現在の日本芸術院である帝国美術院の会員にも選出されているほどです。このような高い評価の裏には、彼の独創的な画法があったといえます。鉄斎は若い頃から日本画家の巨匠と呼ばれるような有名画家や中国の文人画家などから多くの影響を受けており、過去の作品にはその画法を踏襲した作品も数多く残されています。しかし、彼は人と同じであることを徹底的に嫌いました。絵画に関してもそれは例外ではなく、自分が影響を受けた画家たちと同じ画法で絵を描いたとしても、それは何の価値もないと思っていたようです。若い頃の言葉に、「世人と同じであることを欲しない」という言葉がありますが、彼はこれを晩年まで貫き通し、自らの画法の独自性を追い求めていったのです。
近代的と表現される画法ではありますが、その近代性は彼の独創性そのものに他ならないのかもしれません。掛軸に関して言えば、前景・中景・後景とはっきり分かれる構図が文人山水画のセオリーだったのに対して、彼の画法は中景と後景が一体になって連続的な描写がなされています。これによって前景が非常に強調され、立体的で緊迫感のある作品に仕上がっています。
☆さいごに
世界的に需要の高い鉄斎の作品は非常に高値が付きやすいといえます。日晃堂では豊富な経験から適正価格での買取が自慢です。富岡鉄斎の掛軸に限らず、他の画家の絵画でも日晃堂であれば高額買取が可能ですのでぜひお気軽にお問い合わせください。