今回は福島県のお客様より買取した近藤悠三の青磁平鉢について紹介します。ひびやかけのない美品で高価買取することができました。
☆近藤悠三とは
近藤悠三は染付技法の人間国宝として認定された人物です。明治35年近藤正平、千鶴の三男として生を受けました。近藤家は代々清水寺の寺侍として知られ、祖父の正慎は勤皇の志士でした。大正に入り、悠三は京都市立陶磁試験場付属ロクロ科で学び、同試験場の助手として勤務します。このとき、技手だった浜田庄司から窯業化学等について学びました。大正10年大和安堵村に窯を作った富本憲吉の助手として師事します。同13年には京都の関西美術院洋画研究所にて洋画やデッサンを学び、自宅にて作陶に励みます。
昭和3年、帝展において「呉須薊文かきとり花瓶」が初入選。以後7回連続の帝展入選を果たし、新文展では「柘榴土焼花瓶」で特選に選ばれます。戦後は、呉須を使った染付に熱心に取り組み、この技法の研究を行いました。素朴で力強ささえ感じる作風で、独自の染付の世界観をもち多くの愛好家に支持されるようになりました。
その後、日展で審査員を任されたり富本憲吉主宰の新匠会会員になったりと、陶芸の発展に努めます。さらに日本伝統工芸展鑑査員、常任理事、陶芸部部長、支部幹事長などの重役もつとめます。京都市立美術大学で教授に就任するなど後進の育成にも力を注ぎました。昭和44年には京都市立美術大学と京都市立芸術大学が拡大改称された際、学長にも就任しています。国内だけでなく海外でも名前を知られるようになったのは、ミラノ・トリエンナーレ展に「染付花瓶」を出品し銀賞を受賞したのがきっかけです。日本から5人が選抜された現代世界陶芸展では、その中の一人に選ばれ、オークランド美術館やオックスフォード大学に作品が収められています。
昭和45年紫綬褒章を受章、52年には染付技法の重要無形文化財保持者、人間国宝として認定を受けました。昭和60年、胃がんのため83歳で亡くなっています。
☆近藤悠三の青磁平鉢
師である富本憲吉の「模様から模様をつくらず」という言葉に影響を受け、山や葡萄、アザミや石榴など自分でスケッチしたものをもとに作品を作るようになります。多くの作品は、藍色の大胆な筆致で描かれたものが多く、堂々とした器のフォルムと絶妙に調和し近藤悠三の独特の世界観を作り出しています。呉須と呼ばれるコバルトなどを原料に使う絵の具を用い、素焼生地に絵付けをしていく「染付」の作品は非常に価値あるものです。染付は釉薬がかからない状態に絵付けをするため、水分を吸収しやすく高い技術が必要になります。近藤悠三の作品には、熟練の技法と情熱により「染付」ならではの藍の美しさを表現したものが多くあります。鉢や皿などには、梅や葡萄を釉裏紅や赤絵、金彩など多彩な技術で描いたものもあり、非常に人気です。
今回買取させていただいた近藤悠三の青磁平鉢は、代表的な作品にみられる藍の美しい表現とは異なる魅力がありました。平鉢の美しいフォルムは、どこか雄大で青磁の深みが印象的な作品です。シンプルで潔さを感じられる全体像の中に、のびやかな美しさがある貴重な作品といえるでしょう。
☆さいごに
人間国宝として最後まで「染付技法」を追求し続けた近藤悠三の功績は、陶芸界において非常に大きなものだったといえます。そのため、近藤悠三の作品は買取相場においても非常に高価で需要の高いものです。日晃堂では近藤悠三に限らず日晃堂では陶芸作品の高価買取が可能です。