金鵄勲章を詳しく解説|功一級から功七級の仕組み・デザイン・歴史・現在の価値
読まれています
明治から昭和前期にかけて、武功を挙げた軍人や軍属に授与された栄典が「金鵄勲章」です。現在は、近代日本の歴史を伝える資料や収集品としても扱われています。
この記事では、金鵄勲章の意味と成り立ち、功一級から功七級までの仕組み、デザインの特徴、そして現在の評価を左右するポイントを詳しく解説します。
目次
金鵄勲章とは?武功を挙げた軍人に授与された勲章

金鵄勲章は、大日本帝国陸軍・海軍の軍人や軍属のうち、戦役や事変で抜群の武功を挙げた人物に授与された勲章です。
近代日本の栄典制度のなかで、武功を顕彰するための勲章として位置づけられていました。
1890年に制定された金鵄勲章
金鵄勲章が創設されたのは、1890年(明治23年)2月11日のことです。
大日本帝国憲法が発布された翌年の紀元節にあたるこの日に創設の詔が出され、同日、勅令第11号「金鵄勲章ノ等級製式及佩用式」が公布されました。
この勅令によって、功一級から功七級までの等級や勲章の形状、衣服への佩用方法といった基本事項が定められています。
(※佩用=勲章・褒章・刀などを体につけて身につけること、または着用すること)
軍制の整備が進む明治期に、軍人の武勇を称える専用の栄典として設けられたものです。
授与の基準は「武功抜群」と認められることです。対象は陸海軍の軍人だけでなく軍属にも及び、階級や身分に応じて功級を定める仕組みが設けられていました。
文官や一般市民の社会的な功績を称える勲章とは、性格がはっきりと異なります。
「金鵄」の名称と神武天皇の伝承
名称にある「金鵄(きんし)」とは、日本神話に登場する金色に輝くトビのことです。由来は、『日本書紀』に記された初代天皇・神武天皇の東征伝説にあります。
大和(現在の奈良県)を目指して進軍していた神武天皇の軍勢は、土地の豪族である長髄彦(ながすねひこ)の軍と激しく戦い、苦戦を強いられていました。
そのとき、金色に光り輝く一羽のトビが飛来し、神武天皇の弓の弭(ゆはず・弓の先端部)に止まります。
金鵄の放つ光によって長髄彦の兵たちは目が眩み、戦う力を失ったと伝えられています。こうした神武東征の伝承に由来して、金鵄の名が勲章に冠され、その姿が意匠の中心にも据えられました。
旭日章・瑞宝章との違い
近代日本の栄典制度には、金鵄勲章のほかにも旭日章や瑞宝章といった主要な勲章がありました。
旭日章は1875年(明治8年)、瑞宝章は1888年(明治21年)に制定された勲章です。
現在の制度では、いずれも国家または公共に対して功労のある人を対象とし、旭日章は功績の内容に着目して顕著な功績を挙げた人、瑞宝章は公務などに長年従事して成績を挙げた人に授与されています。
戦前には軍人もこれらの勲章の対象となっていました。
金鵄勲章の最大の特徴は、授与の対象を武功に絞った点にあります。軍人や軍属が受章するには、武功抜群と認められることが基本の条件でした。
広く功績や功労を称える旭日章・瑞宝章に対し、金鵄勲章は武功を顕彰する独自の栄典として位置づけられていたのです。
勲章買取なら、日晃堂にお任せください。
勲章買取なら【日晃堂】にお任せください。査定が難しい勲章を、実績のある査定士が無料で査定致します。国内の勲章だけでなく国外の勲章でも構いません。骨董品専門の日晃堂なら正しい価値をご提示することが可能です。出張査定も無料ですので、この機会にぜひご利用ください。
金鵄勲章の功一級から功七級と授与の仕組み

金鵄勲章の等級は、ほかの勲章とは異なる独自の体系で運用されました。受章者の階級と武功の度合いに応じて、授けられる功級が細かく定められていたのが特徴です。
等級の呼び方も独特です。ほかの勲章が「勲一等」「勲二等」といった勲等を用いるのに対し、金鵄勲章は「功一級」から「功七級」までの数字で等級を表します。
最高位は功一級、最下位は功七級。この7段階を総称して「功級(こうきゅう)」と呼びます。
金鵄勲章の授与には、主に次のような仕組みがありました。
- ☑ 初叙
- ☑ 進級
- ☑ 加授
- ☑ 追賜
初叙(しょじょ)は、初めて金鵄勲章を受ける際の授与を指します。軍人の階級ごとに標準となる功級が定められていました。
1942年の改正では、卓越した武功を挙げた場合や重要な職にあって武功抜群と認められた場合に、標準より一級上の功級を初叙で授ける規定も設けられています。
進級(しんきゅう)は、すでに受章している者が再び顕著な武功を立てた際に、より上位の功級へ進む仕組みです。戦功を重ねることで、功級を上げていくことができました。
加授(かじゅ)は、進級させない場合に、現在と同じ功級の金鵄勲章を重ねて授ける制度を指します。1942年の改正で、この規定が明文化されました。
追賜(ついし)は、戦死した軍人に対し、生前の戦功を踏まえて死後に金鵄勲章を授与するものです。
戦死者の階級を特進させる措置は軍の階級制度にもとづくもので、金鵄勲章の功級とは別に定められていました。
功級の基準は、時期によって改正されています。1894年の叙賜条例では、准士官・下士・兵卒の初叙はいずれも功七級でした。
その後、1938年の改正で准士官・下士官の初叙が功六級となり、准士官は功四級、下士官は功五級、兵は功六級まで進級できる仕組みに変わります。
さらに1942年(昭和17年)9月の勅令第655号で、下士官は功四級、兵は功五級まで進級できるよう改められました。
ここからは、この1942年改正後の基準に沿って各功級の特徴を紹介します。
功一級金鵄勲章

功一級金鵄勲章は、金鵄勲章の最高位にあたります。将官のうち、卓越した武功を挙げた人物などに授与されました。
1942年の規定では、将官の標準的な初叙は功三級でした。
その後、卓越した武功を挙げた場合などに進級する仕組みが設けられ、特旨によって通常の基準によらず功一級を授与する規定もありました。
構成は、本体の正章と、胸に着ける副章の組み合わせです。
1895年(明治28年)の佩用式改正以降、正章は幅の広い大綬(たいじゅ)に取り付けて左肩から右脇へ斜めに掛け、副章は左胸に佩用しました。
正章・副章はどちらも、七宝と金めっきを用いた大型の章です。
功二級金鵄勲章

功二級金鵄勲章は、功一級に次ぐ功級です。1942年の規定では、将官が功三級から進級する場合があり、佐官にとっては到達できる最高の功級に位置づけられていました。
当初の功二級は、正章と副章の2つで構成されています。1895年の佩用式改正後は、正章を右胸に着け、副章を中綬で喉下に佩用する形式となりました。
この仕様は1942年9月の制度改正で変更され、功二級副章は廃止。佩用式からも、副章を喉下に着ける規定が削除されています。新しい製式の適用対象は、1941年12月8日以後の日付に係る行賞です。
功三級金鵄勲章

功三級金鵄勲章は、将官が初めて金鵄勲章を受ける際の標準的な功級です。武功を重ねた佐官が進級して受けることもあり、尉官にとってはこの功三級が到達できる最高の功級です。
功三級から下は副章がなく、正章のみの構成となります。功三級の正章は、中綬を用いて喉下に佩用しました。
旭光の七宝や武具の意匠も精緻に仕上げられ、当時の工芸技術の高さがうかがえます。
功四級金鵄勲章

功四級金鵄勲章は、大佐・中佐・少佐といった佐官が初叙で受ける標準的な功級です。准士官や下士官にとっては、進級によって到達できる上限にあたりました。
佩用は、小綬(しょうじゅ)で左胸に着けます。1937年の製式改正で、功四級の小綬には功五級以下と区別するための円形の飾りが加えられました。
それ以前の功四級にはこの飾りがなく、改正後もしばらくは従来の綬による佩用が認められていました。
功五級金鵄勲章

功五級金鵄勲章は、尉官が初叙で受ける標準的な功級です。兵が武功を重ねて到達できる最高の功級でもありました。
佩用は小綬で左胸に着けます。功四級に見られる円形の飾りはなく、小綬に章を吊り下げる形式です。章には赤色の七宝と金めっきが用いられています。
功六級金鵄勲章

功六級金鵄勲章は、1942年の基準では准士官や下士官が初叙で受ける標準的な功級です。兵が功七級から進級して受ける場合もありました。
佩用は小綬で左胸に着けます。章は銀を基材とし、金めっきを施した仕様です。功五級までに見られる七宝は用いられず、金属の仕上げによって意匠を表現しています。
功七級金鵄勲章
功七級金鵄勲章は、1942年の基準では兵が初めて受章する際の標準的な功級です。金鵄勲章の最下位にあたり、兵の武功に対して授与されました。
佩用は小綬で左胸に着けます。章は銀を基材とし、一部に金めっきを施した仕様です。
七宝による着色はなく、翼を広げた金鵄や、交差する盾・矛・剣が浮き彫りで表現されています。装飾を抑えた簡潔な造形に、金属そのものの質感が生きています。
各功級の特徴を1942年改正後の基準で整理すると、次のとおりです。
※ この表は横にスクロールして閲覧できます
| 功級 |
標準的な 初叙 |
1942年改正後の 到達上限 |
構成 | 佩用方法 |
|---|---|---|---|---|
| 功一級 | ― | 将官の最高功級 | 正章・副章 |
正章は大綬で 左肩から右脇、 副章は左胸 |
| 功二級 | ― | 佐官の最高功級 | 正章のみ | 右胸 |
| 功三級 | 将官 | 尉官の最高功級 | 正章のみ | 中綬で喉下 |
| 功四級 | 佐官 |
准士官・下士官の 最高功級 |
正章のみ |
小綬で左胸 (円形の飾り付き) |
| 功五級 | 尉官 | 兵の最高功級 | 正章のみ | 小綬で左胸 |
| 功六級 | 准士官・下士官 | ― | 正章のみ | 小綬で左胸 |
| 功七級 | 兵 | ― | 正章のみ | 小綬で左胸 |
なお、功二級にはかつて副章があり、1895年の改正後は正章を右胸、副章を中綬で喉下に佩用していました。1942年の改正で功二級副章は廃止されています。
最高功級への進級には、武功に関する追加の条件も設けられていました。このように、階級ごとの初叙と、武功に応じた進級の基準が定められていました。
\ WEBでのご相談・ご依頼 受付中 /
簡単WEB査定金鵄勲章のデザインと各部分の特徴

金鵄勲章は、神武東征伝説に由来する金鵄を中心に、剣・盾・矛・放射光線を配した意匠が特徴です。ここでは、章を構成する各部分と、功級による仕様の違いを見ていきましょう。
章・鈕・環・綬など金鵄勲章を構成する部分
勲章は、いくつもの部材を組み合わせて作られた装飾品です。公的な資料や専門分野では、各部に固有の名称が用いられます。
- ☑ 章
- ☑ 鈕
- ☑ 環
- ☑ 綬
章(しょう)は、勲章の本体となる金属部分です。金鵄や武具、旭光が彫刻・彩色された、勲章の顔ともいえるパーツにあたります。
鈕(ちゅう)は、章の上部に設けられた部分で、章と綬をつなぐ役割を担います。
環(かん)は、鈕と綬をつなぐ金属製の輪です。
綬(じゅ)は、章を身に着けるための織物のリボンです。幅や用途によって、大綬・中綬・小綬の3種類に分かれます。
金鵄・武具・七宝に表された意匠
金鵄勲章の正面には、日本の古代を題材にした意匠が集約されています。
意匠の主役は、両翼を大きく広げた金鵄です。くちばしや羽の一筋一筋まで細かく彫刻され、力強さを感じさせます。
金鵄の背後には、放射状に広がる旭光が配されています。光条には赤色の七宝が用いられ、功二級正章と同型の功一級副章では、一部に黄色の七宝も組み合わされています。
金鵄の足元には、日本古代の武具が組み合わされています。中央の盾(楯)とともに、矛(ほこ)と剣を配した構図です。
功級によって異なる仕様と佩用方法
金鵄勲章は、素材や七宝の有無、佩用の形式が功級ごとに細かく区別されています。
綬は、緑色の地に白色の双線を配したデザインです。功一級の正章には大綬、功三級の正章には中綬、功四級以下には小綬が用いられました。
1942年の改正以前の功二級では、副章にも中綬が用いられています。
功一級の大綬は左肩から右脇へ掛け、正章を提げます。功三級では中綬を首に掛け、正章を喉下に佩用しました。
章の仕上げも功級によって異なります。
造幣局所蔵の昭和7~20年製の資料でも、功一級から功五級は「七宝・部分金めっき銀」、功六級は「金めっき銀」、功七級は「部分金めっき銀」とされています。功六級と功七級には七宝が用いられていません。
金鵄勲章の制定から廃止まで

金鵄勲章の歩みは、近代日本が経験した対外戦争の歴史と重なります。制定から廃止までの流れをたどってみましょう。
1890年の制定と日清・日露戦争
1890年に制定された金鵄勲章が、実際に初めて授与されたのは日清戦争(1894〜1895年)でした。
戦争中の1894年(明治27年)11月28日には、勅令第193号「金鵄勲章叙賜条例」が公布。これにより授与の具体的なルールが整い、日清戦争で武功を立てた陸海軍の将兵に金鵄勲章が授けられました。
続く日露戦争(1904〜1905年)では、大規模な兵力の動員にともない、受章者も大きく増えています。防衛研究所の資料によれば、その数は約10万9,600人。
旅順攻囲戦や奉天会戦、日本海海戦などで武功を挙げた将校から兵に至るまで、多くの軍人が受章しました。日露戦争を経て、金鵄勲章は軍人の武功を象徴する勲章として広く知られる存在になります。
その後の戦役と金鵄勲章の運用
日露戦争の後も金鵄勲章の授与は続き、第一次世界大戦期やシベリア出兵などでも受章者が出ています。
昭和に入ると、1931年(昭和6年)の満州事変、1932年の第一次上海事変、1937年に始まる日中戦争(支那事変)と、戦線は拡大します。動員される兵力の増大にともない、金鵄勲章の授与も相次ぎました。
そして、1941年(昭和16年)12月に太平洋戦争(大東亜戦争)が始まると、戦況はいっそう激しさを増します。
1942年9月には叙賜条例と製式・佩用式が改正され、初叙・進級の基準や加授の規定、功二級の仕様などが見直されました。
年金制度の変化と1947年の制度廃止
| 年月 | 主な変化 |
|---|---|
|
1894年 (明治27年) |
金鵄勲章年金令を公布。 功級に応じた終身年金制度が設けられる |
|
1941年 (昭和16年) |
金鵄勲章年金令を廃止。 1940年4月29日以後の日付の叙賜者は年金の対象外となる |
|
1942年 (昭和17年) |
金鵄勲章の叙賜制度や等級・佩用方法などを改正 |
|
1946年 (昭和21年) |
旧受給者への年金も終了。 1946年1月分以後は支給されなくなる |
|
1947年5月3日 (昭和22年) |
関係法令が廃止され、 金鵄勲章の制度そのものが廃止される |
金鵄勲章には、受章者への恩賞として、功級に応じた年金制度も設けられていました。
1894年(明治27年)10月には勅令第173号「金鵄勲章年金令」が公布され、受章者に功級に応じた終身年金を支給することが定められています。
その後、金鵄勲章年金令は1941年(昭和16年)6月28日の勅令第725号によって廃止されました。
ただし、この時点ですべての年金支給が終了したわけではありません。1940年(昭和15年)4月29日より前の日付で金鵄勲章を授与された人については、経過措置として従来の年金制度が引き続き適用されました。
一方、それ以後の受章者には、年金に代わって一時賜金が用いられています。
旧受給者に対して残されていた年金についても、1946年(昭和21年)の改正によって経過措置が廃止され、1946年1月分以後は支給されなくなりました。
なお、金鵄勲章そのものは、年金制度の廃止後も存続しています。1942年(昭和17年)には叙賜制度や等級などに関する改正も行われ、その後、終戦を迎えました。
金鵄勲章が法的に廃止されたのは、日本国憲法が施行された1947年(昭和22年)5月3日です。
同日公布の政令第4号「内閣官制の廃止等に関する政令」により、「金鵄勲章ノ等級製式及佩用式」と「金鵄勲章叙賜条例」が廃止されました。
旭日章や瑞宝章は現在も授与されていますが、金鵄勲章は1947年の廃止後、現在の栄典制度では授与されていません。
旭日章や瑞宝章は現在も授与されていますが、金鵄勲章は1947年の廃止後、現在の栄典制度では授与されていません。
\ WEBでのご相談・ご依頼 受付中 /
簡単WEB査定金鵄勲章を受章した代表的な人物

実際の受章者の経歴をたどると、金鵄勲章の制度がより具体的に見えてきます。ここでは、最高位の功一級を受章した代表的な3名を紹介します。
東郷平八郎
東郷平八郎(とうごう へいはちろう)は、日露戦争で連合艦隊司令長官を務め、日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を破った海軍軍人です。
東郷が最初に金鵄勲章を受章したのは、日清戦争後の1895年です。
防護巡洋艦「浪速」の艦長(大佐)として豊島沖海戦や黄海海戦に参加し、その戦功によって同年に功四級金鵄勲章を受けています。
日露戦争では連合艦隊司令長官として艦隊を率い、1905年5月の日本海海戦で敵艦隊に決定的な打撃を与えました。この武功により、1906年4月1日、最高位である功一級金鵄勲章が授与されます。
乃木希典
乃木希典(のぎ まれすけ)は、日露戦争で陸軍第3軍司令官として旅順要塞の攻略を指揮した陸軍大将です。
乃木もまた、日清・日露の2つの戦役で武功を重ね、功一級へと進んだ人物です。日清戦争では歩兵第1旅団長(少将)として出征し、旅順の攻略戦に参加しました。
日露戦争では第3軍司令官として、ロシア軍が守る旅順要塞と再び向き合うことになります。長期にわたる攻防の末、多大な犠牲を払って要塞を陥落させ、続く奉天会戦にも第3軍を率いて参加しました。
これらの軍功により、1906年4月1日、功一級金鵄勲章が授与されました。
山本五十六
山本五十六(やまもと いそろく)は、太平洋戦争開戦時の連合艦隊司令長官として知られる海軍大将です。
若いころには日露戦争に従軍し、日本海海戦では巡洋艦「日進」の乗組員として、被弾により左手の指を失う重傷を負いました。その後は、海軍航空の整備や航空戦力の運用に深く関わっています。
太平洋戦争では、連合艦隊司令長官として真珠湾攻撃をはじめとする作戦全般を指揮。
1943年(昭和18年)4月18日、前線視察のためブーゲンビル島上空を飛行中に米軍機の迎撃を受けて戦死しました。
戦死に際しては元帥の称号が贈られ、あわせて功一級金鵄勲章が追賜されました。追賜の例として、広く知られる事例です。
金鵄勲章の現在の価値は何で決まる?

現在、金鵄勲章は歴史を伝える資料として、また優れた金属工芸品として、取引や査定の対象になっています。
その評価を決めるのは、功級や付属品、保存状態、来歴といった複数の要素の組み合わせです。
功級や仕様
評価の土台となるのが、勲章そのものの等級である功級です。
功一級から功七級までは授与の基準が異なり、正章・副章の有無、素材、七宝の範囲といった製式上の仕様にも大きな差があります。
上位の功級には大型の章や七宝、金めっきを用いた仕様が見られ、功三級では中綬、功四級では円形の飾りをともなう小綬など、功級ごとに製式が異なります。
功六級と功七級では、七宝の有無や金めっきの仕様、彫刻や綬の保存状態などが重要です。こうした功級ごとの製式が保たれているかどうかも、査定時の確認ポイントになるでしょう。
共箱・略綬・勲記などの付属品
価値を判断するうえで、勲章本体とともに渡された付属品がそろっているかどうかは重要な項目です。
共箱は、勲章を収めるために用意された専用の箱です。時代や功級によって表記や仕様に違いがあり、本体とともに残っていれば、来歴や保存状態を確かめる手がかりになるでしょう。
略綬(りゃくじゅ)は、勲章本体に代えて佩用する小型の標章です。
1936年(昭和11年)の製式改正では、金鵄勲章の略綬は緑色を基調に白色の線を配した円形とされ、功三級以上には翼を付ける仕様が定められました。
勲記(くんき)は、勲章の授与を証明する公的な証書です。受章者の氏名や当時の官等、功級、授与の年月日などが記されています。
共箱・略綬・勲記がひとそろい残っている個体は、資料としての完全性が高いものと見なされます。
七宝・金属・綬などの保存状態
実物の保存状態も、評価を大きく左右する要素です。確かめるポイントは素材ごとに異なります。
章の正面を彩る七宝はガラス質のため、衝撃によるひびや欠けが生じやすい部分です。欠けがなく、艶と透明感を保っている七宝は、美観の面で高く評価されます。
金属部分では、金めっきの剥がれや摩耗の程度が確認されます。銀を基材とする勲章に見られる表面の黒ずみは、空気中の硫黄分と反応して起こる硫化によるもので、自然な経年変化です。
金属磨きや薬品で強く磨くと、彫刻の細部がすり減ったり、金めっきが剥がれたりするおそれもあります。
売却や鑑定を考えているなら、自己判断で磨く前に、まずは現状のまま確認しておくとよいでしょう。
綬は織物のため、湿気や光の影響を受けやすい素材です。色あせや擦れ、破れ、カビや虫食いの有無が確認されます。
しなやかさを保った綬と正常に動く金具は、保管状態の良さを示す目安になるでしょう。
受章者や来歴を示す資料
どのような人物に授与され、どのような経緯で受け継がれてきたのか。こうした来歴の情報も、歴史資料としての価値を支える要素です。
勲記によって受章者の氏名がわかれば、所属部隊や参加した戦役、挙げた武功を歴史資料と照らし合わせられます。
軍歴証明書や辞令書、軍服、従軍手帳、当時の写真、日記や手記などが一緒に残されていれば、まとまった資料群として扱われるでしょう。
\ WEBでのご相談・ご依頼 受付中 /
簡単WEB査定おわりに

金鵄勲章は1890年に制定され、戦前期に陸海軍の軍人や軍属の武功を顕彰した勲章です。制度は1947年に廃止されました。
神武天皇の東征伝説に登場する「金鵄」の名を冠し、功一級から功七級までの功級のもと、階級と武功に応じて授与されました。
赤色の七宝による旭光と、盾・矛・剣を配した緻密な意匠からは、明治以降の日本の金属工芸技術の高さがうかがえます。
日清戦争から太平洋戦争に至るまで、激動の時代を生きた数多くの将兵の記憶が、その造形に刻まれています。
いまや金鵄勲章は、近代日本の歴史を伝える貴重な資料となりました。
ご自宅の蔵や箪笥、遺品のなかから見つかった場合は、功級の違いや共箱・勲記などの付属品の有無、七宝や金属の保存状態を確かめてみてください。
日晃堂では金鵄勲章をはじめとする勲章を買取しています。
お品物の査定に費用はかかりませんので、お気軽にご相談ください。
無料のご相談・ご依頼はこちら
\ 日晃堂へのお問合せはお電話がおすすめです /
0120-961-491
勲章買取なら、日晃堂にお任せください。
勲章買取なら【日晃堂】にお任せください。査定が難しい勲章を、実績のある査定士が無料で査定致します。国内の勲章だけでなく国外の勲章でも構いません。骨董品専門の日晃堂なら正しい価値をご提示することが可能です。出張査定も無料ですので、この機会にぜひご利用ください。
関連記事
-
-
自宅の片付けで見つかった勲章に価値はある?
実家の片付けや遺品整理で、桐箱に入った勲章が出てくることがあります。「古いから値段がつかないのでは」と思われがちですが、…
カテゴリーから記事を探す
勲章買取に
ついてのご相談・ご依頼はコチラ
丁寧に対応させていただきます。
些細なことでもお気軽にお電話ください。
骨董品・古美術品の相談をする
0120-961-491
LINEやWEBでの依頼・相談も受付中
