木島桜谷(このしまおうこく)1877年‐1938年
木島桜谷は、明治・大正・昭和にかけて活躍した画家です。
伝統的な四条派の絵画を学んでその技術を会得し、豊かな抒情性に満ちた動物画や人物画を得意としました。四条派の正統を継ぐ画家のひとりとして知られており、「最後の四条派」という異名で呼ばれています。そのほか、主に大正時代に活躍していた頃には四条派の祖を築いた画家・呉春になぞらえて「大正の呉春」と呼ばれることもありました。その作品は京都国立近代美術館などに所蔵されており、いずれも高い価値を誇ります。
叙情豊かな動物画や人物画を得意とした“最後の四条派”
1877年、木島桜谷は京都に生まれました。
曽祖父が江戸時代にやや名を知られた絵師であり、祖父や父が芸術に造詣の深い人物だったこともあり、桜谷は幼少の頃から優れた芸術に触れて育ちます。学生時代には算術や簿記などにはまったく興味を示さず、文学に深く傾倒し、同時に京都の画壇における巨匠として知られていた今尾景年のもとで絵画を学びます。京都府立商業学校の予科に通っていたもののそちらは中途退学し、絵画の制作と読書に没頭する生活を送りました。今尾景年のもとに入塾した翌年には早くも絵の才能を発揮し、第3回青年絵画共進会に出品した作品が高い評価を受けます。翌年にも作品を出品し、三等褒状を得て注目されるようになりました。1897年に景年の塾を卒業し、その後は全国絵画共進会、文展などで活躍。特に文展では1904年に開催された第1回から第6回まで連続して受賞を果たし、新進気鋭の画家として知られるようになります。1912年からは京都市立美術工芸学校(現在の京都市立芸術大学)の教授となり、翌年には文展の審査員となります。しかし当時、あまりにも技術が他を圧倒するほどであり、師の今尾景年があまりにも桜谷を高く評価して過剰な推薦を繰り返したため中央の画壇からは敬遠されるようになり、以後は第一線を退いて依頼に応えて作品を製作するようになります。晩年は精神を病み、1938年に電車に轢かれて死去。悲劇的な最期を遂げました。
木島桜谷の代表作
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「遊鹿図」
鹿は桜谷が好んで描いたモチーフであり、こちらの「遊鹿図」のほかにも「しぐれ」をはじめさまざまな作品があります。
中でも六曲一双の屏風絵として製作された「遊鹿図」は、鹿の親子がくつろいでいる姿を情感たっぷりに描いた名作として高く評価されています。足を折りたたんで座る父鹿と子鹿、そして子の毛づくろいに余念がない母鹿の姿などが繊細な筆致で描かれており、桜谷らしい豊かな情緒が感じられる仕上がりになっています。現在、京都国立近代美術館に所蔵されています。 -
「行路難」
京都国立近代美術館に所蔵されている作品で、こちらは人物を描いた作品となっています。
タイトルは「道を行くのに難儀すること」を意味しますが、まさしくつらい旅に疲れて歩みを止めてしまったらしい人々(両親と娘)の姿が描かれています。大荷物を抱えた両親は路傍に腰かけて途方にくれた表情をおり、かたわらの塀に背をもたせかけて立っている娘もぼんやりと遠くを見つめています。人物の表情に深い物語性を感じさせる作品ですが、茶色や灰色、藍色など暗くくすんだような色調で描かれた両親とは対照的に、娘が手に持つ傘の赤が印象的なアクセントとして用いられており、絵の全体を引き締める効果を発揮しています。
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