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長谷川利行作品買取

長谷川利行の生涯

長谷川利行(はせかわとしゆき)は誰にも師事せず、また個人のアトリエを持たないというスタンスを貫き通した異色の洋画家。仲間内では下の名前をもじって「りこう」という愛称で呼ばれていました。 まだ駆け出しの頃は二科展や帝展への入選を逃すものの、自分の画道を揺らがせることなく不屈の精神で活動を続け、徐々に画家としての知名度を上げていきました。 しかしその人生は不明確な部分も多く、謎のベールに包まれた画家ともいえます。


そんな長谷川は京都出身。生年月日については明らかになっていませんが、一般には1891年7月生まれだといわれています。 30歳前後まではもっぱら詩や歌の創作に力を入れており、歌人を志していたといいます。 1919年には歌集『長谷川木葦集』を発行しており、また1921年に上京した時点でも小説を手がけていたことがわかっています。


そんな彼がいつ、そしてなぜ画家を志すことになったかは定かではありませんが、ひとつだけはっきりしているのは生涯独学で絵を描いていたということ。 そして「思い立ったとき、好きなタイミングで絵を描く」というスタンスで画家活動を行います。 当初は展覧会に出品するも落選続きでしたが、諦めない心が実を結び、1920年の第1回新光洋画会展で『田端変電所』が初の入選を果たします。


また1926年、関東大震災を乗り越えて再び上京した際に、詩人・高橋新吉や洋画家・前田寛治をはじめ、多くの芸術家たちと交流していくようになります。 見聞を広めつつ刺激を受けることで長谷川は作品の質を向上させ、1927年に開催された第14回二科展では『麦酒室』『酒売場』『鉄管のある工場』で樗牛賞受賞を果たします。


このようにして周囲からの評価を獲得していった長谷川ですが、その私生活は決して褒められるものではありませんでした。絵を描いているとき以外はよく酒を飲み、友人から借金することもしばしあったといいます。 こうした言動から次第に長谷川を知る人が離れていったことも、彼の生涯に不明な点が多々見られる理由のひとつでしょう。 そして1940年10月、長谷川は不摂生な生活が仇となって胃がんを患い、そのまま息を引き取ります。


長谷川利行の代表作と作風

長谷川の作風の特徴として、明るく華やかな色彩で描かれている点が挙げられます。 モダン調の風景画を中心に、温かみを感じさせる人物画も多く描いています。 また、独学で絵描きを続けていることから、当時の洋画界の常識にとらわれない自由奔放な作風が目立つのもポイント。長谷川独自の視点から見た世の中をありのままに表現しており、そういった個性あふれる作品だからこそ次第に評価されていったのでしょう。 代表作『水泳場』(1932年)『青布の裸婦』(1937年)などにもこのような作風が現れています。

『水泳場』は、建物やそれを取り巻く人混みが赤を基調に描かれており、静止画でありながら賑やかな雰囲気が伝わってくるかのような印象を受けます。 一方、『青布の裸婦』は仰向けになって寝そべる裸婦の姿が黄色を基調として描かれています。波乱万丈な長谷川の生涯とは裏腹に、優雅で落ち着きのある構図が印象的な作品です。

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