
松本竣介(まつもとしゅんすけ)1912年–1948年

松本竣介は、大正から昭和にかけて活躍した洋画家です。
創作活動に励む傍ら、麻生三郎や大野吾郎といった画家たちと新人画会を結成。また、夫婦で月刊誌を創刊したり、美術雑誌に一文を投稿したりと多方面で活躍を見せました。
とはいえ、はじめから順風満帆な画家人生を歩んでいたわけではありません。 画家を志して上京するものの、当初はなかなか自分らしいスタイルが定まらず、およそ10年にわたって苦悩の日々を過ごしたといいます。 しかし、その間も腐らずに試行錯誤を重ねた結果、青を基調とした透明感のある作風を生み出しました。 そんな中、第二次世界大戦の勃発をきっかけに、作風が再び変化。当初の面影を感じさせない、暗い色調の絵を多く描くようになります。 以降、油彩画や雑誌の表紙、挿絵などの制作に励んだものの、1948年、結核によって37歳という若さでこの世を去りました。
37歳の若さでこの世を去った早逝の画家
1912年、東京・渋谷に生まれた松本竣介。
父の仕事の都合で、幼少期のほとんどを岩手県で過ごします。
そんな中、脳脊髄膜炎により、若くして聴覚を失うことになります。しかし、この件で父の希望する軍人の道が絶たれ、自身が夢見ていた技師の道を歩めるようになりました。
そして1929年、兄から油絵の道具一式を譲り受けたのをきっかけに画家を志すようになり、上京します。
上京後は太平洋画会研究所に入所し、絵の技術を学びました。
しかし、なかなか独自のスタイルを生み出すことができず、10年ほどは満足のいく作品を描けなかったようです。
そんな中、1935年に前衛グループ・NOVAに参加。その翌年には松本禎子と結婚し、夫婦で月刊誌『雑記帳』を創刊します。また、1940年には美術雑誌『みずゑ』に「生きてゐる画家」というエッセイを投稿するなど、幅広い活躍を見せました。
その一方で画家としての活動にも力を注いでいた松本は、1943年に麻生三郎や大野吾郎たちと新人画会を結成。第二次世界大戦後も展覧会に出品しつつ、雑誌の表紙や挿絵の制作にも励みました。 しかし1948年、結核が発覚。それから一月ほどで容態が急変し、そのまま帰らぬ人となりました。
松本竣介の代表作
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「立てる像」
エッセイ『生きてゐる画家』を発表したのちに描いた油彩画です。 静寂に包まれた街中に佇む、1人の青年の様子が描かれています。 不安そうな表情を見せるその青年は、時代に抗いながらも画家として生きる道を探す松本竣介本人だともいわれています。
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「建物」
松本竣介の絶筆です。
戦後、松本は暗い色調の絵を多く描きましたが、その中でも本作品は、死が迫る松本の心情を反映したかのような異様な雰囲気を放っています。 中学時代からの付き合いがある彫刻家・舟越保武はこの作品について、「これほどに画家の生命の集結を思わせる絵はない」と語っています。
そのほか、「赤い建物」「街」などが有名です。
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