満谷国四郎(みつたにくにしろう)1874年–1936年
満谷国四郎は、明治から昭和初期にかけて活動した洋画家です。
名前をもじって「九・二・四郎」、さらにはそこから転じて「十五老」とも称しました。
生涯に描いた作品の数は600を超えるといわれており、文展、帝展での活躍が多く見受けられます。
また、後期には吉田博や丸山晩霞といった洋画家たちと太平洋画会を創立し、その理事に就任。この功績が讃えられ、わずか34歳という異例の若さで文展審査員に抜擢されました。
その後も晩年まで創作活動に励みつつ、後進の育成に力を注ぎ、日本美術界の発展に貢献しています。
新たな描法を編み出した日本近代洋画を代表する洋画家
満谷国四郎は1874年10月、岡山県賀陽郡門田村(現・総社市門田)に生まれました。
叔父であり、岡山の洋画界を牽引してきた画家でもある堀和平の影響を受け、幼少期から絵に興味を示します。その後、吉富朝次郎や松原三五郎といった洋画家たちから絵を学び、腕を磨いていきました。
それからしばらくして、松原三五郎から画家としての才能を見出された満谷は中学校を退学。本格的に絵の道を歩むために上京します。
その後、洋画家・小山正太郎が設立した画塾・不同舎に入門し、画法を学びました。
そして1898年、油絵「林大尉の死」が明治天皇から称賛されたことで、知名度が飛躍的に向上。華々しい画家デビューを遂げました。
それから間もなくして渡仏した満谷は、およそ1年間にわたって名画家ジャン・ポール・ローランスに師事したのち、1902年に帰国。吉田博、丸山晩霞たちと太平洋画会を立ち上げました。 その後は太平洋画会理事を務めつつ、創作活動に励み、文展や東京勧業博覧会などに出品。画家としての地位をさらに確立させました。これらの功績が讃えられ、34歳という異例の若さで文展審査員に抜擢されます。 以降、2度目の渡仏や4回にわたる中国旅行を経て、新たな作風を確立させていきます。 また、その一方で1925年に帝国美術院会員を務め、後進の育成にも力を注ぎました。 しかし1936年、病気療養中だった満谷は容態が回復せず、そのまま息を引き取りました。
満谷国四郎の代表作
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「緋毛氈」
満谷は晩年、「日本人ならではの油絵とは何か」という命題を掲げ、その答えとして華やかな印象を与える装飾的な作風を生み出しました。 本作品はその代表作であり、女性特有の柔和さを感じさせる美しい裸婦像が描かれています。
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「樹下裸婦」
日本の伝統的なテーマである、樹下美人図として描かれた作品です。 色彩豊かな構図になっており、色と色を並べることで物の境界を明確に表現しているのが特徴として挙げられます。これも満谷が導き出した“装飾的”と呼ばれる表現方法であり、テーマは伝統的でありながらも新たな描法で描かれました。
そのほか、「早春の庭」「かぐや姫」などが代表作として知られています。
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