木村武山(きむらぶざん)1876年–1942年
木村武山は、明治・大正・昭和にかけて活躍した日本画家です。
明治の新時代を迎えて日本画が進化を求められる中、横山大観などと手を取り合ってその発展に尽くした功績があります。1898年の日本美術院創立に関わり、以後その中核で活躍しつつ、格調高い気品ある作品を数多く生み出しました。作品は独特の色彩感覚を持ち、日本美術院で随一のカラリスト(色彩画家)と呼ばれ、現在においても高い価値を誇ります。
「日本画を進化させるために苦闘した画家
1876年、木村武山は茨城県笠間市に生まれました。
生家は旧笠間藩に仕えた武家で、父・信義は明治維新後に笠間銀行を設立。信太郎と名乗っていた武山は裕福な環境で育ち、幼い頃から絵画の本格的な勉強を始めます。
12歳で「武山」を号として名乗り、旺盛な絵画制作を開始しました。
1890年に故郷を出て上京。東京美術学校で学び、教授の下村観山との交流を深め、以後は観山や横山大観とともに日本画の進化を目指して模索することになります。 1898年、芸術家・岡倉天心のもとに集まった下村観山、横山大観らが結成した日本美術院に参加します。美術院は、従来の線をくっきり描く日本画の伝統に背を向けて、西洋画の影響を受けて線をぼかした「朦朧体」と呼ばれる作風を編み出しました。 木村武山はそんな美術院ふうの画風を積極的に取り入れ、多くの作品を生み出します。 さらに1906年、岡倉天心が茨城県の景勝地・五浦に移るときには家族を連れて参加し、五浦の地でのちに代表作となる作品の多くを手がけました。
1937年には脳梗塞の後遺症で右手が使えなくなりますが、左手のみで絵筆を握り、洗練された流麗なタッチの美しい作品をさらに生み出し、“左武山”の異名を取りつつ活躍。晩年に至るまで旺盛な創作活動を続けました。
木村武山の代表作
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「阿房劫火」
中国の故事を題材にした作品です。
始皇帝が中国大陸を統一して樹立した秦王朝は、紀元前206年に滅びました。当時の皇帝・嬰王を亡き者にしたのは戦国の風雲児・項羽であり、彼はその勢いで宮殿「阿房殿」を焼き払った……と司馬遷の歴史書『史記』に記されています。その故事を作品化したのが「阿房劫火」です。 激しい火炎が宮殿の建物を舐めるように焼き、黒煙が立ち込める凄絶な場面を描いていますが、炎や黒煙の輪郭が曖昧にぼやかされていることもあり、どこか幽玄で幻想的な匂いのある仕上がりになっています。 -
「羽衣」
東洋に伝わる羽衣伝説を作品化したものです。 六曲一双の屏風絵として描かれており、金箔をふんだんに使った絢爛豪華な背景に青々とした山嶺、白くたなびく雲、そして透明感に満ちた羽衣姿の天女が舞う姿を描いています。 天女の姿かたちや表情は仏画にインスピレーションを受けたものといわれており、おかしがたい清らかさのある崇高なムードが特徴として挙げられます。
その他、「小春」「日盛り」などが代表作として知られています。
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