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川端龍子(かわばたりゅうし)の作品買取実績や歴史をご紹介します

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川端龍子
1885年 - 1966年
日本画買取

川端龍子(かわばたりゅうし)1885年–1996年

日本画

川端龍子は、大正・昭和期に活躍した日本画家です。
「日本画は静謐な世界を繊細で優美な筆致で描くもの」という暗黙のルールを大胆に打ち破り、激情のおもむくままに激しいタッチで荒ぶる世界の実相を表現しました。その自由自在で融通無碍な作風は衝撃をもって迎えられ、後世に多大な影響を及ぼしています。日本画の歴史が転換する時代、その転換の原動力となった画家であり、作品は高い価値を誇ります。

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あふれるエネルギーをキャンバスにぶつけた激情的な日本画家

1885年、川端龍子は和歌山県に生まれました。
後世に名を残す優れた画家の多くは、幼少期に絵画と出会う印象的なエピソードを持っていますが、龍子の場合は「鯉のぼり」でした。風にはためき、まるで川を泳ぐかのように身をうねらせる鯉のぼりの絵に魅了された龍子は、職人の家に通い、その手もとをじっと見つめて飽きることがなかったといわれています。

10歳の頃に上京して中学生となった龍子は、読売新聞主催の絵画コンクールに出品。入選を果たして賞金を得たことで、職業画家の道を本格的に志します。 1913年、世界に羽ばたく画家となることを夢みて、西洋画を学ぶために渡米。自らの技術がまったく通用しないことで挫折しますが、たまたま足を運んだボストン美術館に所蔵されていた『平治物語絵巻 三条殿夜討の巻』を見て、日本画に転向することを決意します。 「三条殿夜討の巻」は、源義朝の軍勢が後白河上皇を幽閉するために京都御所の三条殿に突入し、火をかけるシーンをクライマックスにしたドラマチックな作品です。 躍動感と激情に満ちた日本画の世界に感銘を受けた龍子は、その強い印象を胸に帰国。以後、「迫力はあるが乱暴で騒々しい」という非難を受けつつも自らの道を貫き、激しいタッチで描いた作品の数々を世に問うことになりました。

1929年、自らの作品に加え、自分と志を同じくする画家たちの作品を展示する「青龍会」を結成。鳴門海峡に渦巻く“鳴門の渦”を描いた大作「鳴門」をはじめ、数々の作品を発表します。 そしてついに功績を認められ、1935年には帝国美術院、1937年には帝国芸術院の会員に任じられます(1941年に辞任)。

その後は戦中・戦後も旺盛な活動を続け、戦後の1959年には文化勲章を受章。1966年、大作「龍」を完成半ばで遺して逝くまで、生涯現役として活躍しました。

川端龍子の代表作

  • 「愛染」

    深い愛欲を意味する“愛染”という言葉がタイトルに選ばれたこの作品は、散り落ちた真紅の紅葉が一面に広がる池のうえで、オシドリのつがいが見つめ合う一瞬を描いています。 オシドリは、いわゆる「おしどり夫婦」の語源になった鳥であり、雄・雌のつがいが決して離れず2羽で行動する習性を持っています。龍子の筆はそんなオシドリの姿に愛欲の姿を見出し、鮮やかな紅葉の赤とあわせ、静かな激情が迸る作品に仕上げています。

  • 「爆弾散華」

    1945年8月13日、敗戦を迎える2日前の東京にアメリカ軍の戦闘機が飛来して空襲を仕掛け、東京都大田区にあった川端邸の庭が直撃弾を受けます。ささやかな家庭菜園が吹き飛び、野菜が四散して草花がちぎれ飛び、目のくらむような爆弾の閃光が迸りました。 龍子はその惨状に衝撃を受け、絵画にすることを思いつきます。 色づきつつあった野菜の実がはじけ飛び、草花の葉や茎が揺れる中、血しぶきのような閃光が金箔で鮮烈に表現されています。
    その他、「鳴門」「草炎」などが代表作として知られています。

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