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藤田嗣治作品買取

藤田嗣治の生涯

藤田嗣治(ふじたつぐはる)は、多くの画家がひしめき合う激戦区・パリを拠点に活動した洋画家です。 1920年代のパリで画業を成功させることは難しい、特に東洋人が成功をおさめるなど奇跡に等しいとされている中、見事、その奇跡を現実のものとしました。


そんな藤田は1886年、東京市牛込区(現・新宿区)で医者の家に生まれました。 父・嗣章は現在の東京大学医学部出身であり、作家であり陸軍省に勤める軍医でもあった森鴎外の後任として陸軍軍医総監の地位に登り詰めた人物でした。 当然、そんな父は藤田に医師を目指してもらいたかったようですが、息子の意思を尊重し、主に資金提供によって画家になりたいという彼の夢を後押ししたといいます。 このような父の助けもあり、藤田は東京美術学校を卒業したのち、1913年に単身で渡仏します。


当時、日本の洋画界は黒田清輝に大きく影響されていました。彼は構図に重要性を見出しており、確固たる構想を練ったうえで絵を創作する必要があると提唱していました。そして、このような黒田の考えに基づいて描かれたものこそが洋画である、という認識が日本では当たり前でした。 一方、パリの洋画における思想は黒田のそれと正反対であり、型にとらわれることなく自由な発想で描くことが一般化されていました。 このことに衝撃を受け、そして感化された藤田は、これまでの作風を捨て、新たに一から自身の作風を練り上げていきます。


とはいえ、当時のフランスで生き抜くことは難しく、加えて1914年の第一次世界大戦の勃発により、藤田の生活は困窮を極めます。 そんな中、彼にとって大きな救いとなったのが、フランスで女性画家として活動していたフェルナンド・バレーです。彼女と結婚したことで人脈が一気に広がり、藤田の名前は広く知られることになりました。 日本人ということもあり、これを機に藤田の知名度は爆発的に上昇。パリを代表する画家の1人として認められるようになります。 その後、アメリカ、日本での活動を経て再びフランスに“帰った”藤田は、1995年に帰化。1957年にはフランス政府よりレジオン・ドヌール勲章を授与されます。 こうして数々の困難を乗り越えつつもパリで大成功を収めた藤田でしたが、1968年、癌によってスイスでその生涯を閉じました。


藤田嗣治の代表作と作風

フランス国籍を取得した藤田は、カトリックの洗礼を受けて“レオナール・フジタ”と改名。そして、融通無碍な絵画世界を目指すエコール・ド・パリ(パリ派)を代表する日本人画家として注目を集めます。 そんな彼が描く作品の特徴としては、繊細かつ独特な色合いの白が多く用いられている点が挙げられます。これは“フジタ・ホワイト”とも呼ばれ、パリで高い評価を獲得しました。 特に、『裸婦 長い髪のキキ』『横たわる裸婦』『裸婦像 長い髪のユキ』など、乳白色の下地を用いた裸婦像は、藤田の代名詞ともいえる作品になりました。

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