藤田嗣治(ふじたつぐはる)1886年–1968年
藤田嗣治は芸術の都・パリを拠点に活動した、エコール・ド・パリ(パリ派)を代表する日本人画家です。
1920年代のパリといえば、多くの画家たちがしのぎを削る激戦区。その中で画業を成功させるのは難しく、特に東洋人が成功を収めるのは奇跡に等しいとされていました。
そんな中、藤田は数々の困難を乗り越え、見事に奇跡を現実のものとしました。
日本でも活動したものの、生涯の大半をパリで過ごしており、晩年にはフランス国籍を取得するまでに至っています。
繊細かつ独特な色合いの乳白色を用いた作品が多く見られますが、このカラーはのちに“フジタ・ホワイト”とも呼ばれ、パリで高い評価を獲得しました。
激戦区・パリで奇跡的な成功を収めた日本人画家
藤田嗣治は1886年、東京市牛込区(現・新宿区)に生まれました。
東京大学医学部出身の父・嗣章は、作家であり陸軍省に勤める軍医でもあった森鴎外の後任として、陸軍軍医総監の地位に登り詰めた人物です。当然、藤田にも医師を目指してもらいたかったようですが、息子の「画家になりたい」という意思を尊重し、資金提供によってその夢を後押ししたといいます。
このような父の支援のおかげもあり、1913年、藤田は単身でフランスに渡ります。
渡仏後、洋画における認識が日本とフランスで真逆であると知った藤田は、従来の常識にとらわれない自由な発想で描くフランスの思想に感化され、一から独自の作風を築き上げていきます。 しかし、当時のフランスで東洋の画家が生き抜くことは極めて難しく、さらには追い打ちをかけるように第一次世界大戦が勃発。藤田の生活は困窮を極めます。 そんな中、フランスで活躍していた女性画家フェルナンド・バレーと出会い、結婚したことで、藤田の知名度は飛躍的に上昇。パリを代表する画家の1人として知られるようになります。 その後、日本やアメリカで活動したのち、再びフランスに“帰った”藤田は、1955年に帰化。その2年後、1957年にはフランス政府よりレジオン・ドヌール勲章を授与されます。 しかし1968年、癌によってスイスでその生涯を閉じました。
藤田嗣治の代表作
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「タピスリーの裸婦」
“フジタ・ホワイト”を活かした1923年の作品です。 藤田は自身の生み出した乳白色を活かす題材として裸婦を選んでおり、本作品もそのひとつ。“フジタ・ホワイト”によって女性特有の柔らかさが表現されているほか、用いる色を最低限に抑えることで、女性の美しさがよりいっそう引き立てられています。
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「裸婦 長い髪のキキ」
2番目の夫人・キキをモデルに描いた作品のひとつ。 背景を黒く塗りつぶすことで乳白色がよりいっそうの輝きを増し、神々しささえ感じさせます。 このようなキキを題材にした裸婦像は特にパリで人気を博し、その乳白色の肌は「グラン・フォン・ブラン(素晴らしい白い地)」と絶賛されました。
そのほか、「横たわる裸婦」「鏡と少女」などが代表作として知られています。
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