満谷国四郎の作品買取なら日晃堂におまかせください。
確かな鑑定力により満谷国四郎の作品であれば買取に自信がございます!

TOP

満谷国四郎作品買取

満谷国四郎の生涯

満谷国四郎(みつたにくにしろう)は、明治から昭和初期にかけて活動していた洋画家です。 生涯に描いた作品の数は600を超えるといわれており、文展(文部省美術展覧会)や帝展(帝国美術展覧会)に何度も代表作を出品しています。 名前をもじって「九・二・四郎」と称し、ここから転じて「十五老」とも呼ばれます。


そんな満谷は1874年10月、岡山県賀陽郡門田村(現・総社市門田)に生まれました。 叔父であり、また岡山県の洋画界を牽引してきた画家でもある堀和平の影響を受け、幼少期から絵画に強い関心を持ちます。また、小学校では教師として赴任していた洋画家の吉富朝次郎、中学校では同じく洋画家・松原三五郎から可愛がられつつ、絵画についての学びを深めていきます。 それからしばらくして、松原三五郎から画家としての才能を見出された満谷は中学を退学して上京。小山正太郎が開設した画塾「不同舎」に入門し、五姓田芳柳に師事しつつ画法を学びます。 そんな中、1898年に発表した油絵『林大尉の死』が明治天皇の目に止まり、これがきっかけで彼の知名度は一挙に高まります。


しかし満谷は自身の腕をさらに磨くべくフランスに渡り、名画家であるジャン・ポール・ローランスのもとで約1年間、修行を積み重ねます。 そして1902年、帰国した満谷は吉田博や丸山晩霞とともに「太平洋画会」を創立します。 その理事を務めつつ、東京勧業博覧会、文展といった展覧会で次々と自身の作品を出品。よりいっそうの人気と知名度を獲得します。このとき満谷はまだ34歳だったものの、功績が認められ、異例の若さで文展審査員に抜擢されます。 その後も彼は2度目の渡仏をしたり4回にわたって中国旅行を繰り返したりしつつ、新たなスタイルを確立させていきます。 また、1925年には帝国美術院の会員となり、後進の育成・指導に尽力します。 しかし1936年、四皓会に『罌栗』を出品するなど旺盛な絵画制作を続けますが、その年の7月、病気療養中だった満谷は自宅で帰らぬ人となりました。


満谷国四郎の代表作と作風

満谷の作風は、2度目の渡仏をきっかけにガラリと変化しています。 当初は写実主義の画家である小山正太郎の影響を強く受けていたことから、高いデッサン力でモデルを忠実に描き写した作品が多く見られました。 しかし2度目の渡仏を果たしたあとは、ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌやアンリ・ルソーといった画家に感化され、幻想的で象徴主義的な作品を描くようになります。 また、彼の代表作である『樹下裸婦』『緋毛氈』をはじめ、“装飾的”と呼ばれる新たな表現方法を取り入れた作品を多く描いているのも見どころです。

ご売却をお考えの絵画がございましたら日晃堂にお任せください!

独自ルートによる販売経路を確立しておりますので、他店以上の高額買取が可能ですので、 他店での査定金額にご不満の方、売却される前に是非ご一報ください!

鑑定には経験豊富な古美術専門鑑定員のいる日晃堂にお任せ下さい。 価値ある資産を誠心誠意、正当に評価させて頂きます!

無料出張買取や、無料宅配買取も致しております。 何でもお気軽に電話・メールにて相談下さい。

買取方法 ~ご都合に合わせて選べる~

骨董品・食器を
価値に見合った価格でお買取

作家名や詳細が不明な骨董品、食器でも
お気軽に電話・メールでご相談ください。

初めてのお客様買取10%アップ

トップへ戻る