
愛新覚羅溥傑(あいしんかくらふぎ)1907年‐1994年

愛新覚羅溥傑は、中国の“最後の皇帝”として知られる愛新覚羅溥儀の弟。
大日本帝国の傀儡国家である満州国では、兄の溥儀が皇帝に即位するかたわら、軍人として兄を支えました。戦後は日中友好の架け橋となって活躍したほか、中国の全国人民代表大会民族委員会の副主任を務めるなど要職に就いて活躍しました。その数奇な生涯は、映画化・テレビドラマ化もされた妻の浩による自伝『流転の王妃』などで知ることができます。また生涯を通じて流麗な書を得意とする書家としても知られており、作品はいずれも高い価値を誇ります。
流麗な書を得意とした“流転の王妃”の夫にして“ラストエンペラー”の弟
1907年、愛新覚羅溥傑は北京で生まれました。
幼少期に皇帝の座に就いた兄・溥儀に幼いながらもよく使えましたが、1911年に辛亥革命が勃発し、さらにはクーデターも起こって愛新覚羅家は紫禁城(皇帝とその一族の住まい)から追われることになります。一時、北京の日本大使館に身を寄せた愛新覚羅家はその後、当時の大日本帝国の庇護のもとで生活を送ることになります。溥傑は1929年に日本に渡り、日本語を学んだうえで学習院高等科に入学。さらに1933年には日本の陸軍士官学校に入学します。当時、中国では日中戦争が泥沼化しており、東北部は日本が奪取して満州国を建設していました。やがて溥儀は満州国に皇帝として迎えられることになり、溥傑は満州国の軍人となります。1937年、溥傑は昭和天皇の遠縁にあたる嵯峨家の女性・嵯峨浩と結婚。満州国の中枢と日本との関係を深めるための政略結婚に過ぎませんでしたが、溥傑と浩夫人とは生涯にわたっておしどり夫婦の関係を築くことになります。その後、終戦までは満州と日本を行き来する生活を送りますが、ちょうど溥傑が満州にいた1945年8月、日本は急速に追い詰められて敗戦を迎えることになります。戦後しばらくは戦犯としてソ連の強制収容所や中国の戦犯管理所に収容されるなどしますが、1960年に釈放され、以後は全国人民代表大会常務委員会委員を務めるなどして日中友好の架け橋としての後半生をまっとうしました。
愛新覚羅溥傑の代表作
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「重訪扶桑詩」
1974年、戦後に再び日本の地を踏んだときの感慨を詠んだ漢詩を書にしたもの。
日中友好の未来に思いをはせた格調高い詩と、溥傑ならではの流れるような美しい書体がマッチしています。こちらは現在、関西学院大学に所蔵されています。 -
「重遊扶桑誌喜」
こちらも、1974年に書かれたもの。
同じく日本を再び訪れたことを詠んだ漢詩ですが、上の「重訪扶桑詩」よりはややリラックスした内容で、再び懐かしい地を踏み、懐かしい人々に会える喜びを素直にうたったものとなっています。次女の嫮生が嫁いでいた福永家に贈られました。
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