田中頼璋(たなからいしょう)1868年‐1940年
田中頼璋は明治~昭和を代表する日本画家です。
日本美術協会展で受賞を重ねた田中は巽画会審査員、日本画会評議員を務め、川端画学校(画家・川端玉章が設立した専門学校)では教授として絵の指導にあたりました。川端画学校は太平洋戦争で廃校となりましたが、同校は数々の芸術家を輩出していることで知られる専門校であり、この学校で教壇に立ちながら、自身の創作活動を続けたといいます。
また、自宅でも画塾を開き後継の育成に力を入れた田中頼璋。作品は四条円山派を継承しており、写実的な描写が特徴である一方、「文人趣味(中国で生まれた書画、漢詩、俳句などを好むこと。また中国の文人の価値観を支持すること)」を持っていたことから、文人趣味と日本画と融合させたような画風であるという特徴を合わせ持ちます。
遅咲きの作家として知られる
田中頼璋は島根県邑智郡市木村の大庄屋(江戸時代最上位とされた村の役人)の子として生まれました。上京して本格的に絵の勉強をしたいと思っていた田中でしたが、明治以降、実家は衰退。こうした事情から田中は裕福な家、寺院で絵を描く「旅絵師」として生計を立てながら、幕末~明治に活躍した画家・森寛齊(もりかんさい)の絵を模写するなど、独学で絵の勉強をしたといいます。 そして36歳で上京し、四条円山派の画家・川端玉章に入門した田中頼璋。年下の門下生たちからは年長者であることを馬鹿にされる日が続きましたが、田中の「画家として成功してみせる」という強い意思と努力が実を結び、作品が次々と受賞するようになりました。 画家として高い評価を得るようになった田中は、指導者、審査員などの役割を担うように。一説によると、指導はあまり上手ではなく、模写ばかりの授業は生徒たちから不評だったといわれていますが、自宅でも画塾を開くなど「後輩を育てたい」という思いは強かったようです。関東大震災後は拠点を広島に移し、最期まで画家としての生涯を貫きました。
主な作品について
田中頼璋は山水画と瀑布図を得意としており、描いた作品は文展、帝展で上位受賞を重ねました。田中が絵を描くうえで重要としているのは「写実的であること」。瀑布図においては水しぶきの一滴一滴がリアルに描かれているとして、見る者を驚かせました。 また、山水画では彼の文人趣味がよく現れており、唐風な要素を感じることができます。生涯で描いた作品の具体的な数は発表されていませんが、作品のほとんどが掛け軸の山水画で、現在も骨董収集家や海外の日本画愛好家からの高い関心が寄せられています。
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