
福田豊四郎(ふくだとよしろう)1904年–1970年

福田豊四郎は、大正から昭和にかけて活躍した日本画家です。
豊四郎の画家人生は一貫して“日本画の革新”に捧げられており、その作品は革新を目指した試行錯誤の産物でした。「画家は永遠に変化しない自然を前にしたとき、それをただ写し取るだけでは不十分である。新たな目を持ち、表現しなければならない」というのが豊四郎のポリシーであり、西洋画の技法を積極的に取り入れて唯一無二のオリジナリティを生み出しました。
その作品の多くは美術館や博物館に所蔵されており、いずれも高い価値を誇ります。
西洋画を吸収してオリジナリティを生み出した日本画家
1904年、福田豊四郎は秋田県に生まれます。
10代の半ばにはすでに画家を志していた豊四郎。日本画を学ぶために京都に移転し、1920年代初めに土田麦僊や川端龍子に学びます。麦僊や龍子は従来の日本画を変革する新たな作風を模索した画家たちであり、豊四郎もまたその影響を受けます。
1925~1928年に京都絵画専門学校に在籍し、卒業後は上京して再び川端龍子に師事します。
この間、すでに豊四郎は日本画の世界で活躍しつつありました。
さまざまな展覧会に出品して高い評価を得て、新進気鋭の日本画家として知られるようになります。
1934年、同世代の画家たちと山樹会を、さらに翌年には日本画研究会を設立。1938年、この組織は新美術人協会と改称し、活動の視野を広げます。 そんな中、豊四郎は従軍画家としてアジア各国をめぐり、兵士たちを描いた作品を制作しています。
戦後は、日本画の革新を推し進めるために創造美術協会(現在の創画会)を設立させます。 創造美術協会に加わった画家たちとともに、豊四郎は新たな世界観を持つ日本画を生み出すために試行錯誤を続け、発表する作品の多くは驚きと称賛をもって迎えられました。 また1956年、武蔵野美術大学で日本が講師として教鞭をとり、後進の育成にも尽くしました。
こうして日本画壇で縦横無尽の活躍を見せた豊四郎でしたが、1960年代の後半には肝硬変を抱えて入退院を繰り返すようになり、1970年に死去。享年65歳でした。
福田豊四郎の代表作
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「海女」
磯手拭いで頭を覆った3人の海女が裸身を海中で躍らせている姿を描いた作品です。 彼女たちの肌は青、緑、黄、赤といった色で塗り分けられ、超現実的な姿に描かれています。色彩によって遠近を表現するという福田豊四郎独自の技法をいかんなく発揮して、海女の仕事ぶりをダイナミックに表現した作品であり、豊四郎の畢生の傑作です。
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「雪国」
故郷・秋田の雪深い山河をテーマに描いた作品です。 山々の間を代行して川が流れる中に、完全防備の子どもたちや馬に引かれた橇などを配しています。独特の輪郭表現、豊かな色彩表現で、どこか幻想的な空気を漂わせた明るい作品に仕上げられています。
その他、「五月山湯」「八郎潟凍漁」などが代表作として知られています
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