松永耳庵(まつながじあん)1875年–1971年
松永耳庵(本名:安左エ門)は、明治から昭和にかけて活動した実業家です。
現代の電力会社の基盤を築いた人物であり、このことから「電力王」「電力の鬼」といった異名を持ちます。
一方で、益田鈍翁や原三渓と並ぶ「近代小田原三茶人」の1人として、小田原(神奈川県)で近代茶道の発展に大きく貢献した人物でもあります。
電力事業を中心に幅広い分野で名を馳せた実業家
松永耳庵は1875年、長崎県壱岐に生まれました。
幼い頃に福沢諭吉著『学問のすすめ』に深い感銘を受け、1889年、上京して慶應義塾大学に入学します。しかし、1893年、父の急死により帰郷。しばらくは家業を継ぎます。
その後、21歳で慶応義塾大学に戻るものの、卒業を間近にして学問への関心が薄れたために中退。日本銀行に勤めるものの、日銀幹部によるストライキ事件がきっかけで、1年ほどで辞職します。
その後は石炭業や材木商を営んだのち、福博電気軌道の設立に立ち合い、電力事業に携わるようになります。そして1922年、東邦電力を設立。副社長を務めたのち、1928年に社長に就任。関東における電力事業において随一の影響力を見せ、「電力王」と呼ばれることになります。
しかし1942年、戦争の影響によって東邦電力は解散。これを期に松永は引退を決意し、所沢(埼玉県)の別荘で茶道三昧の日々を過ごします。その結果、増田鈍翁、原三渓と並び称されるほどの茶人として名を馳せました。
また、古美術品のコレクターとしても活動しており、日本だけでなく東洋からも数々の名品を蒐集したことでも知られています。
第二次世界大戦後、かつての功績から電気事業再編成審議会会長に任命された松永は、再び電力事業に携わる一方で、1959年に松永記念館を設立。集めた古美術品を一般公開しました。 また、洋書の翻訳を行うなど、多岐にわたって活動し、1968年には慶応義塾命名百年式典にて名誉博士の称号を授与されます。 こうして電力事業を中心に幅広い分野で活躍した松永でしたが、1971年、95歳でこの世を去りました。
松永耳庵の代表作
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実業家、美術コレクターとして活躍した松永耳庵は茶人としての顔も持っていました。 そもそも「耳庵」は60歳を過ぎてから茶の湯に取り組むようになったときに自ら付けた号で、論語にある「六十而耳順」からとられているといわれています。論語には「四十而不惑、五十而知天命。六十而耳順……」とあり、「40歳にして迷わず、50歳にして自らの店名を知る。そして60歳になると、納得できる人の言うことには逆らわず従順になることができる……」としています。 そんな松永耳庵は、茶の湯の場で出すお菓子を自ら考案したり、茶室に掛ける掛軸を書いたりしています。耳庵の掛軸には彼特有の豪快でありながらも細部に繊細な心遣いが行き届いた筆運びが見られます。
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