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熊谷守一作品買取

熊谷守一の生涯

熊谷守一(くまがいもりかず)は、明治後期から昭和後期にかけて活動した、日本の洋画家。 感覚的で野性的なタッチを得意とする、日本画壇を代表的するフォービズム画家です。


熊谷は1880年、岐阜県恵那郡付知村(現・中津川市付知町)に生まれました。父が実業家・政治家として活躍していたこともあって家は裕福でしたが、守一少年を取り巻く環境は複雑でした。 大勢の妾を囲い、異母兄弟を設けていた父は邸宅を複数所有していましたが、守一少年は3歳で生みの母と引き離され、父の妾、異母兄弟たちが住む邸宅に住むことになります。


そんな熊谷は、17歳で上京。正則尋常中学校でしばらく学ぶものの、幼いころから絵を好んでいた熊谷の心には画家になりたいという気持ちが膨らみます。 「慶応義塾(中学校)に1学期がんばって通えたら認めよう」という父の出した条件を完璧にこなした熊谷は、その言葉通り慶応義塾に1学期だけ通って中退。絵の道を歩み始めました。


共立美術学館で学んだのち、20歳で東京美術学校西洋学科選科(現・東京藝術大学美術学部)に入学。スケッチ旅行と称して徒歩で各地をめぐり、美術にひたる青春時代を送ります。 しかし、父が脳卒中で急死。旅先から戻ったと同時に父が残した莫大な借金を背負います。 ここから、熊谷は長きにわたって貧乏生活を送ることになりました。 大学を主席で卒業したのちは、樺太調査団の記録画家をつとめ、公募展に出品するなどの画業を行いつつ日雇い労働に励み、友人からの金銭支援で食いつなぎます。


42歳で結婚すると立て続けに5人の子供に恵まれたものの、その頃は音楽に熱中していたため絵が描けず貧窮。その日食べるものに困るどころか、次男が病に臥せったときすらも病院に行くことができずそのまま死なせてしまうほどでした。 次男の亡骸を絵に描いたところで愕然とした熊谷は、その翌年に「二科技塾」に参加して絵の指導に当たって生活を立て直します。 そうしてようやく家を建てた熊谷は50歳を超えてから個展を開いて、画家として大成しました。 しかし本人は、最後まで名声などに興味を持ちませんでした。晩年には、文化勲章や勲三等叙勲の内示を辞退しています。


熊谷守一の代表作と作風

代表作は『陽の死んだ日』。 陽(よう)は熊谷の次男のことで、貧窮のうちに死なせてしまった自身の子供の亡骸を描いた作品です。 穏やかな顔で描かれた陽の顔とは裏腹に、乱れ散る筆から熊谷の悔恨の念を汲み取ることができます。これを描いたとき、「これでは人間ではなく鬼だ」と自身に愕然としたと言います。 熊谷は、「熊谷様式」ともいわれる独特な表現主義的抽象度の高い絵画作品を数多く残しました。 『陽の死んだ日』もまた、見るものをそのままに写すのではなく、色と筆遣いでそのときの千々に乱れて荒廃した心を表現する熊谷様式が見られる作品と言っていいでしょう。

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